祖父との思い出2

「おじいちゃあん、おじいちゃあん、行くよう、早く行くよう、って言って、おじいちゃん、妹にミルク飲ませてるのに、バスのガラガラ引っ張るおもちゃもって、行くよ、行くよって何度もいってさ、その話をおじいさんから何辺も何辺も聞かされたいや。

それで遠ーくまで散歩していってさ、そうしたら、途中でお前が眠たくなって、それで、妹おんぶして、お前のことをおじいさん抱えて、バスのおもちゃ引っ張って帰ってきたんだれ。 ばぁか疲れたいやって、おじいさん言ってさ。」


2019/03/24

到着すると地元はよく晴れていた。
母親が喪主なため、せわしなく連絡をとったりしていた。余裕がなさそうだ。
僕は車に乗り込むと、とりあえず祖父の家に向かうことになった。妹と3年ぶりにあった。
向かう道中で、母は車を運転しながら、決めることが多く、葬儀会社と何度も何度も打ち合わせしなければ行けない状況に苛立っているうようだった。

祖父の家では、布団で祖父が寝かされていた。息を引き取ってから3日目なので、喉元が緑色に変色し、耳が暗い紫色に変わっていた。首から下は、布団がかけられていて分からなかった。

触ると冷たい。ドライアイスのせいだ。
じいちゃん、帰ってきたよ。

線香を折らずに火をつけ、立てる。水を替えてやる。水を替えるのが供養になるそうだ。

祖母は相変わらずマイペースだ。
今の葬儀は割合手が込んだものになっていて、遺影以外にも写真をいくつも集めたコラージュみたいなものも作るらしい。そのために引き出した昔の写真を見ながら、自分を見つけては可愛い可愛いと何度もいっていた。 こんだけ可愛かったんだから、そら言い寄られるわけだ、と言っていた。

**

母の家系は、男の子供に恵まれなかった。
僕の母が長女、そして近いところに嫁に行った叔母(次女)がいる。
僕の家も叔母の家も祖父母の家からはそう遠くはないし、行き来がずっとあるが、叔母の方が訪問頻度も高く、その分関係性も強かったんだろうと思う。

僕は初孫で長男だったこともありすごくかわいがってもらったしその自覚もあるが、逆に叔母の子達は一番下の子で18でまだ地元におり、孫を通した交流も多かったことも、交流頻度の多寡に影響していると思う。

そうはいっても長男がいないため、とりあえず長女である母が喪主ということにしたそうだ。祖母はとにかくそういった面倒事を任せられる状態ではない。

**

今日は僕と父、妹は家に帰って、母親は祖母と祖父と泊まることにするそうだ。宗教的な理由からか、線香を絶やしてはいけないらしく、火事になる危険性もあるので祖母一人には任せることができない。それに死体と夜を二人で過ごすのは、幾ら夫婦だったとはいえ可哀想だ。(遺体の顔に白い布がかけられていることも多いが、祖母はその状態が怖いらしく、常にとっていた。) 明日は昼に納棺、夜に通夜、そのまま祖母と僕の家族が斎場に祖父と泊まる。叔母たちは斎場と家が近いため家に帰り、葬儀前にまた来る形になった。

大まかな予定を確認したあと、父方の叔父(父の兄)が妹に結婚祝いを渡したいことと、僕が妹に髪の毛を切ってほしいと依頼したことで、先に一旦家に帰ることにした。母が父に、僕の髪の毛を切り終わってから叔父に連絡して来てもらえ、コーヒーをだして、茶菓子が今家にないから、このお菓子を持っていけと、お菓子をもたせてくれた。

家について散髪が始まるやいなや、父は叔父に連絡し、髪の毛を切ってる途中に何故か叔父が来た。コーヒーは出すのに茶菓子は出さない。しかも何故か寒いし、叔父の対応を僕と妹に任せ、自分は少し離れた席で相撲を見ていた。それでも談笑して和やかな雰囲気だったが、終わったあと確認すると、車の中にお菓子は置きっぱなしだった。父はこういう人間なんだ。僕はまた祖父の家に向かう途中の車の中で、父を叱った。

祖父の家に叔母家族が来たので、久しぶりに皆でご飯を食べにいった。回転寿司。
僕は叔母の隣りに座った。叔母は普通に振る舞っているようだったが、かなり憔悴しているようだった。


2019/03/25

今日は納棺と通夜。
納棺は15時からなので、それに間に合うように祖父の家に行けば良かった。

昼頃、一旦母を家に戻すため、妹が迎えにいった。祖父の家の風呂が機能していないため、家で風呂に入りたいそうだ。
帰ってきた母は、祖父の家では歯も磨けなかった、 誰も歯がないから歯磨き粉がないんだと言った。なるほど、盲点だったなと思った。

支度をしていると刻一刻と納棺の時間が近づいてくる。それにもかかわらず、父はラーメンを食いに行きたいだの、出前を頼もうなど食べる話しかしない。僕は今日の晩、斎場に泊まって翌日の式に出席した後直接大阪に帰るので、忘れ物の無い様、荷物をまとめた。
お昼ご飯は結局スーパーで弁当を買った。

祖父の家に向かう道中、母はいろいろなことを語った。
今回、いろいろなことを決めなければならないが、祖母が決めることができないので、自分が決めなければならないこと。連絡すべき人たちの連絡先などはすべて、祖父が生前残してくれたノートに記載されていたこと。そこには僕の電話番号や、息子が生まれたこと、親戚関係の生死なども記載されていたこと。浅丘雪路、死亡なども書かれていたこと。入院中に何かあった時のために、姉妹にはお金の場所等も事前に教えておいたこと。そういうことが、今回すごく助かったと言っていた。また、家系の本家、分家等のしきたりが分からず、マナーを犯したために少々ややこしくなっていて、ストレスになっていることも語った。

話を聞いていると、本家問題以外にも、お坊さんに対する扱いも特別なものだった。僕はなんとなく、そういったしきたりがひどく疑問だった。
僕は祖父を送りたいがために来ているのであって、本家との顔つなぎに来ているわけでもなければ、入信しに来てるわけでもない。母や叔母も同じはずだ。お坊さんは宗教上の行為を持って祖父を弔ってくれる、いわば協力者の立ち位置であって、そこに気を使いすぎて祖父を送ることに集中できないような構造では、改められてもいいのかもしれないと思った。

早めについたので、祖父の顔を何度も眺めて、触る。右の頬には若干赤い筋がはいってきている。何人か祖父に会いに来た。叔母たちもきた。そしてお坊さんと棺がやってきた。
遺影は淡い緑色の額に入れられている。棺もそれに合わせた色、運び込んで祖父の隣に置く。

旅支度。
布団を剥ぐと、黄色くてむくんだ手や足がみえる。
手が大きい。こんなに手が大きかったんだなーと思った。
アルコールで体の出ている部分を拭いてやる。僕は顔を拭いた。祖母も反対側から顔を拭いた。

おじいさん、旅立つときが来ましたて。しょうがねえんだ。

僕は次に手を念入りに拭いてやった。黄色くて大きい手が、堪らなく愛しかった。
祖母は祖父の手を取り、「冷てえねえ、冷てえて。22日の日に、おじいさんの手を握ってたんだよ。そんときはさ、あんなあったけかったのに、冷てえねえ。ずっと触っててもあったかくならねえね」といった。

旅支度は、足袋を履かせ、すね当て、手の甲あてをつけて、最後に頭巾をつけて、六文銭をもたせてやる。
足や手はすごく冷たくて重たかった。

腹水が溜まっているので、頭の方を下げるとそれがクチから出る可能性があったため、慎重に、棺の中に収めた。
収めたあと、葬儀会社の人が綿で袴を着せてくれた。下から見ると立っているように見えた。
あまり立派だったからか、父が写真を撮っていいか聞いた。僕はその時の父の態度が不真面目に感じて、苛々しながら父を諌めた。葬儀会社の人は、最近はそういう方も増えていますと言ったが、祖父は写真がすきでなかったから、と、その話は流れた。 それから顔にファンデーションを施して、口に綿をつめ、少し紅を塗った。妹も化粧を施してやっていた。本当に生きているみたいで、寝てるだけなんじゃないかと何度も思って、何回も何回も冷たい顔を触った。

入院中、枕元に置いていたという妹が買ってきた健康長寿のお守りも持たせてやった。50円玉など、小銭も集めて持たせてやった。集めた小銭を祖母が、じいさん、お金持ちになりましたね、といって袴の襟のやたら奥に突っ込んだ。

大好きだった酒と、枕と、衣類なんかの遺品も葬儀会社の人に渡した。
そして棺の蓋を締めた。
その時、それがなぜだかすごく悲しかった。

重たい棺を霊柩車に乗せた。
それが出発するのをみながら、もう肉体はここに帰ってこないんだと思った。

僕たちは着替えながら通夜の迎えのマイクロバスを待った。着替え終わったくらいで、母は通夜の終わりの挨拶をするので、そのための原稿を練習した。
父も妹も泣いた。母も泣いた。本番に読めるのだろうかと不安になるほどに。

祖母の準備は致命的に遅い。それは周りを常に苛立たせるほどに。
通夜の支度をして迎えが来たが、祖母はストッキングを履くのに時間がかかっている。うちの親父の気が揉めている。だけどいいじゃないか。ばあちゃんのための葬式でもあるんだから。

僕は叔母の息子とともに車で斎場に向かった。久しぶりの従兄弟。
叔母の子供は三人いる。長女、長男、次男だ。長女が一番年が上だ。

斎場につくと、祖父のスナップ写真や、先程渡した遺品が展示されていた。スナップ写真はぼくが写っているものがやたら多かった。嬉しくて、切なくなった。
会場に入ると、すごく立派な飾りが用意されていて、祖父が寝ていた。顔をずっと見ていたい。
徐々に人が集まって、スナップ写真を見ながら談笑をしたり、控え室でコーヒーを飲んだりしている。僕はそういった人たちに挨拶したり、変にトイレに立ったりしていた。そうして、その間に何度も祖父を覗きに行った。
祖父のそばに、僕以外にもうひとりいて、慈しむように祖父を見ていた。あとから聞くと妹だそうだ。祖父をひどく慕っていたらしい。

親戚たちへの挨拶や、談笑をしているとあっという間に時間が過ぎた。お坊さんがはいってきて母たちは挨拶に向かった。もう直ぐお通夜が始まる。
僕は何度めかのトイレに向かってから煙草を吸った。

地域柄、祖父は法華宗だった。
僕はこのタイプの葬儀関連は初めてだったので、興味深く参加していた。
隣に座る父が、だんだん眠たそうにしてくるのを肘で小突いて起こしながら、お経を聞いていた。
リズミカルな打楽器とお経は、意味はわからなかったがなんとなくぼうっとしてしまった。この時間、僕は祖父について考えていた。いろいろなことを思い出そうとしていた。話の断片や記憶をかき集めて辻褄を合わせるような、物語を作っているようなことを繰り返していた。ふわふわとした浮遊感の中で、満遍なく引き伸ばされた悲しみの上をたゆたっているような、悲しいような、よくわからないような気持ちをずっと感じていた。

焼香をして、南妙法蓮華経と唱えさせられた。35日法要もかねているからかもしれない。焼香は最初喪主である母と叔母、祖母の三人が行った。きちんとできるかな、と思った。その後僕と父、妹、叔母の子。僕は中央の焼香台をつかった。真正面から焼香をしたかった。

読経が終わると、喪主の母が挨拶だ。
変にどきどきする。
その前に突然、プロジェクターが降りてきて、祖父の生前のスライドショーが始まった。結婚式みたいだなと思って笑った。

母が泣いてる姿はほとんど記憶にない。
テレビを見て泣いていたことはあった気がする。あるいは定かではないが、子供の頃、父と喧嘩して泣いていたところを見た記憶が朧気にある。
そんな母は、声をつまらせながら挨拶を読み終えた。
隣で妹は号泣していた。

通夜振る舞いでは、父の兄夫婦と、祖父の兄弟の奥さんしかいないテーブルに座っていろんなことを話した。
奥さんはその兄弟は昨年の10月に亡くなったんだと言った。10月22日。祖父は3月22日、偶然ってあるもんですねと話していると、父の兄が、うちの方のおじいちゃんがなくなったのも2月22日だったといった。
不思議だなと思った。

参列者が全部帰ったあと、葬儀場の宿泊部屋に僕の家族と祖母、叔母家族が集った。
母と叔母は明日の流れを確認している。祖母は疲れたのだろう、すぐに横になって目をつぶった。通夜振る舞いでラーメンを3杯も食べていたので満腹だったのもあったかもしれない。
部屋には祖父も運ばれてきていた。
棺桶の小窓を開けて、祖父の顔をまた触った。相変わらず、生きていて寝てるみたいだ。
叔母の一番下の18歳に、今祖父がバッて起き上がってきたらどうする?と聞いた。
嬉しいと答えた。
俺も。と言った。
昼間母がこの質問を祖母にしたら、祖母は逃げると言ったらしい。

その子にビールを注いでやった。
じいちゃんと一緒にずっと飲みたかったんだといった。僕は飲めたのに飲めなかったんだと白状した。だから今日はたくさん飲もう。
小さいグラスにビールを注いで祖父のもとにおいて乾杯した。

思えばこうして皆揃って集まれるなんて、本当に久しぶりだ。
じいちゃんうれしいやろな。
僕もじいちゃんと久しぶりに一緒に泊まれて嬉しいよ。


2019/03/26

葬儀は9時から。
朝の6時頃から目は覚めていたが、ある程度飲んでいたし、なんとなくゴロゴロしていたくて寝たふりをしていた。一緒に飲んでた従兄弟は良い感じに酔っ払っていたが、二日酔いは大丈夫だろうか。なんかすごく懐かれてしまった。
祖母は午前2時頃に風呂に入ったそうだ。湯壷に入ったと言っていた。湯壷という語彙がなんだかツボに入ってしまって無性におかしかった。

布団を揚げて、朝ごはんにコンビニのおにぎりを食べて、支度をした。
じいちゃん、おはよう。今日でお別れだね。と顔をなでた。
少し時間があったので、近くのコンビニまで歩いていった。このあたりを歩くのは初めてだったので、少し道に迷いそうになった。
コンビニで野菜ジュースを買って、煙草を吸った。雨の予報だったが、気持ちよく綺麗に晴れていた。

戻ると参列者たちが既にちらほら来ていた。老人たちは朝が早い。
僕は再び、祖父を覗きに行って、それから親戚たちに挨拶をした。
今回わかったことだが、妹のコミュニケーション能力は異常だ。職業柄、高齢の方を相手にすることが多いこともあると思うが、ほとんどの人と話をして盛り上がっていた。
昨晩の通夜振る舞いでは僕の隣りにいた祖父の兄弟の奥さんと連絡先の交換さえしていたし、母の悩みの種になっていた祖父側の本家のおばあさんに世辞や冗談をいったりして笑い合っていた。
しかも祖父側、祖母側の家系図まで頭の中で掴みかけてきたらしく、妹を通して誰が誰なのかの説明をうけた。無論、僕はほとんど覚えることができなかったわけだが。

葬儀が近づいてきたので、煙草を吸った。
父の兄と一緒になった。
「じいちゃんはでも良かったと思う、ひ孫も見れたんだし。うちの方は一人もひ孫見ないで死んでしまった」といった。

時間になって葬儀が始まった。
流れは通夜とほとんど一緒だったが、お坊さんの服が少し違ったし、お経中に何かしらで棺を叩いたり、なにかバラバラとした紙がついた棒を煙越しに投げて棺の上に乗せるというパフォーマンスがあったりした。
僕はまた昨日と同様に、父を肘で小突いて起こしつつ、お経をきいたり、遺影を眺めたりした。父の向こう側で祖母もコクリコクリとなっている。湯壷というワードを思い出して、僕は少し、笑ってしまった。
焼香したり手を合わせたり、南妙法蓮華経を唱えたりして、葬儀は終わった。
お経をきいている間、祖父の兄弟関係の方たちはお坊さんと一緒にお経を読んでいた。僕はなんとなく、祖父に向かって一緒に弔ってやれるのは少しうらやましい気持ちになった。

お経が終わり、花を手向ける。
花を手向けながら、また、顔を触る。
もう触れなくなるので、何度も何度も頬を撫でる。
余った花も手向け、遺品もいれる。
顔の近くに酒を供える。
誰かがそれじゃあねといったので、僕は顔を背けて棺から少し離れた。
それじゃあね、と僕も言おうと思ったが、うまく発生できなかった。
だけれど言わなければいけないと思って、また顔を触りながら小さい声で、じゃあね、と言った。

棺の蓋を締めて、出入り口まで運んだ。
出棺の挨拶は叔母がおこなった。
叔母も言葉をつまらせながら挨拶をした。
聞きながら祖父の兄弟が声を揚げて泣き崩れた。
棺は運ばれて、霊柩車の荷台に載せられた。

霊柩車は長いクラクションを三回ならして、火葬場へとむかった。僕たちもバスに乗ってそれを追いかけた。僕はまた、叔父と隣りに座った。なんとなく話したかったので、霊柩車の話をしていた。
ひどく悲しい瞬間と普通の瞬間が短い感覚で交互にやってきて、それについてうまく対処することが難しいなと思った。

火葬場は真新しく、綺麗で広い建物だった。
新しいせいか、あの独特の匂いが全然ない。
どの火葬場でもそうだが、物事が粛々と淡々と行われ、非常に事務的な対応がされる印象があったが、ここはそうではなかったので安心した。

火葬場の奥まで進むと、焼くための装置が蓋を開けて待っていた。
再度お経が読まれ、焼香し、顔を見て、手を合わせた。
じいちゃんがこれからあそこに入るのが凄く怖く感じた。
棺をいよいよ、装置に入れるとき、これから人間の形をした肉体を焼くという行為がありありと感じられて、悲鳴のようなものが漏れたのが聞こえた。
蓋を閉める時、手を振って何人かがバイバイといった。ぼくもそれに習ってばいばいといって、装置の扉は閉められるのを見送った。

あの世とこの世というものを分け隔てるものがあるとすれば、僕はこの、火葬の装置の扉なのではないかと思った。

葬儀場にかえって、お斎の時間。
1時間半ほど皆でご飯を食べて、お骨拾いに行く。
バスから降りて、お斎の場に向かう途中、妹はスナップ写真のコラージュなんかを写真に収めたし、じいちゃんのことも今朝、写真に撮ったと言ったので、写真を送ってもらった。普通にほしいと思った。

お斎は和食のコース料理のような形式だった。席は決まっていて、孫5人は同じテーブルに集められていた。叔母が挨拶をして、お坊さんが献杯の音頭をとった。叔母はもう、泣いていなかった。
お坊さんの献杯に合わせて、孫の僕たちは普通に乾杯をしてグラスを鳴らした。
葬儀場のスタッフが笑ってた。やってしまった、と思ったが、孫は往々にして許されるもんだろうと思って笑った。
これから気をつけます。

18歳の従兄弟は胃の調子が悪そうだった。二日酔いらしい。
若い人間しかいないテーブルには、老人たちのテーブルから無尽蔵にご飯が送られてきて、胃がはちきれそうになった。一番若い人間は胃がだめになっているので、僕と叔母の長女が大活躍していた。なんだか凄く楽しかった。
妹は久しぶりに孫が集まったのだし、と孫と祖母とで集合写真を撮ることを提案した。椅子を並べて真中に祖母を座らせて、それを囲んだ。いい写真が取れた。

あっと言う間に時間は過ぎて、お骨拾いの時間。
希望者だけがいく形だったが、祖父の親戚まわりも、祖母の親戚周りも殆ど来なかった。祖父の兄弟で生前飲み仲間だったおじさんが来た。祖父にそっくりだ。
バスに乗って出発をまった。この日9件も火葬が入っていたので、時間厳守だそうだったが、祖母はトイレに入ってなかなか出てこなくて、皆待たされた。
父はまた苛々している。僕はばあちゃんぽいなと思って可怪しかった。

結局10分近く遅れて出発した。
綺麗に焼き上がっていて、骨の形がしっかり残っていた。ここまで残るのは珍しいそうだ。大腿骨や頭蓋骨も形がありありと分かるほど綺麗に残っていた。
時間がないので橋渡しは最初の一回だけ。僕と、叔母の長男が行った。
それからみんなで骨を集めた。途中から飲み仲間の祖父の兄弟は手で集め始めた。お兄ちゃんの骨だもんなと思った。
すべて骨壷に収めて、それを僕が受け取った。決して落とさないように大事に大事に抱えた。

葬儀場に戻ると、場は解散になった。
参列者を見送って、荷物をまとめた。バスに乗って、祖父の家に帰った。
最後に、お寺にいって、またお経を読んでもらわねばならない。

ただいま。じいちゃん、帰ってきたよ。

祭壇に祖父を置いて、お寺に向かった。
お寺につくと、骨はどうした?ときかれた。
家だとこたえると、必要なんだが、、、と言われた。
取りに帰るのも、ということでそのまま読経が行われた。
読経を聞きながら祖母はたぶん寝ていた。父も眠たそうにしていた。

すべて終わって、祖父の家についたが、葬式の引き出物を渡すところがある、と母と父と妹はまた出ていった。叔母たちも着替えに帰った。僕は荷物をまとめたり、着替えたりしなければならなかったので、祖父の家にいた。祖母と二人になった。
二人きりになった祖母は、じいちゃんにむかって手を合わせた。しばらく手を合わせて何かを話していた。僕はその横でそそくさと着替えを済ませた。
祖母はそれから、何かが食べたいと言い始めた。そばを食べに行こうと言い始めた。冗談じゃない。僕はまだまだ満腹なんだ。祖母は今食べるわけではない、一時間後とかに食べるんだといった。それからそばが良いか、チャーハンがいいか、焼そばがいいか、もしたべるとしたらスープがあるものと無いものどっちがいいか、やっぱり焼そばが良いかもしれないというようなことをしきりに言い始めた。
僕は5時には電車に乗らないといけないから食べられないよ、といったが、聞いてるのか聞いてないのかわからない。
母がもうすぐ帰ってくるはずだから、それから決めたら良いんじゃないかといった。だが、人数が多いから早く予約しないと行けなくなると答えた。火曜日の昼間だから大丈夫、まだ埋まったりはしない。
納得したようだったが、おもむろに立ち上がって、突然受話器を持ち始めた。ちょっと待て、どこに電話するの?ときいたら蕎麦屋だという。
こういう時だけ何故か行動が早い。
なんとか説得して、先に着替えてもらうことにした。

部屋には僕とじいちゃんの二人。
遺影を見ながらたくさん話した。
後悔をいくらしても時間が巻き戻るわけではないし、祖父が今、そこにいるわけでもない。それに、もしかしたら尽くせる限りの最善だったのかもしれない。
それでも、それでも、という気持ちが湧いてきて、同じことを何度も繰り返し頭の中で反芻していた。

母が帰って来て、少し時間があったので近所を散歩した。
久しぶりにあるいてみると、どんどん記憶が戻ってくるのを感じた。
その記憶も全部、ぼくの思いこみかもしれないけれど、僕はここで確かに祖父と遊んだし、可愛がってもらってたんだと思った。
同様に祖母にも、両親にも。
僕が老いて死ぬときには孫にも同じように思ってもらえたら良いなと思った。