子どもが産まれたし、最近のこととこれからのこと

11月に子どもが産まれた。
長女で名前は日菜乃とつけた。僕は5歳になった長男といつまでもふざけていてまともな案を出さなかったが、妻がいい名前を考え出してくれた。非常に素敵な名前だと思う。
女性の名前は難しい。いくつか考えてみたけれど、どうにもしっくりこない。
あまり名前に対して強い思い入れがない質なので、画数がほとんど命名の拠り所になっている。まず画数で調べて、その中で音と雰囲気で良さそうなものを選ぶことにしている。
長男の時もそうだし、今回産まれた長女についても上記の通りなので、幼稚園なんかで名前の由来を提出するような企画で少し困る。

11月の半ばから12月いっぱいは育休を取得している。 長男は予定日より早く生まれたので、今回も予定日より早めの11月に初旬頃に生まれるだろうと漠然と思っていたけれど、たっぷり予定日を超えて産まれた。
11月初旬に生まれたらその段階から育休取得すれば2ヶ月くらい取れると考えていたが、その目論見は完全に外れてしまった。
最終的には計画出産になったけれど、突然生まれるのと違って、産まれる日を決めることができてしまうので、お腹から出てくるのがなんとなく寂しいような気持ちになった。

出産にあたって、長男の幼稚園の諸々とか家事のことがあるので7時に起床することになった。今までは9時に起床することが多かったので心配だったけど、今は逆にこのサイクルに慣れ始めている。
7時に起きて洗濯や子供のご飯の用意、着替え、布団を片付けて幼稚園の支度、送り出し、諸々が済むと大体9時ごろになっている。
この調子が続くのであれば仕事に入っても問題ないと思うけれど、赤ん坊は刻一刻と状況を変化させるので、実際に仕事が始まる頃にはどのような状況になっているかはわからない。

もう長男は冬休みに入ってしまったので変わってしまったが、およそ午前中9時から長男の迎えがある15時ごろまでは、たまに赤ん坊の様子を見つつ自分の時間を過ごしていた。
絵を描いたり、最近では音楽を作ったり、または新しいプログラミング言語の勉強をしていたりするとあっという間に時間は過ぎる。
この時間が本当に楽しくて、いつまでも育休だったらいいのにとも思う。
思えば仕事で1日8時間働くというのは凄まじいことだ。
起きてから日が暮れるまで、体感的に最も人間が何かを行うのに向いている時間だと思うし、そんな時間を週の5日分も提供するということをもっと意識すべきだなと思う。

2年前の自分の日記を読み返すと、子供には仕事は楽しいものだと伝えたい旨を記述していたけれど、今もそれは変わっていない。
逆にいえば、上記のような時間を費やすことを考えると、前向きに過ごせない仕事だとすごくもったいないと思う。

仕事はおそらくうまくいっている。もう長いこと今の職場で働いたような気がするが、来年でまる3年ということになるらしい。
コードを書くことは相変わらず楽しい。コードを書くことはもちろん楽しいのだけれど、ここ最近は何を作るかということが自分のモチベーションに強く関わっていることに気づいた。

世の中には様々な課題があって、多くの会社はその課題を解決することで需要を創出し、利益を得ている。 その課題や解決方法が自分の関心に近いほど仕事は面白いのかもしれない。

子供と仕事の話をすることがある。仕事の話というか将来なりたい職業のような話をする。
話していると自分は社会にでてこの年齢なるまで、仕事の種類というものをほとんど知らなかったなと思う。
仕事だけでもないけれど、世の中にある様々なものを広く知ることで、可能性が広がるし、いろいろなことに興味を持ってその中から好きなものを選べるようになるといいなと思う。

音楽の制作は最近始めたばかりですごく楽しい。
元々音楽が好きで自分で作ってみたいと言う気持ちはあったけど、何から手をつけたらいいのかわからなくて後回しになっていた。
そんな中、たまたま先輩のところに遊びに行って相談したところ、使ってないMIDIキーボードがあるからといただいた。
それを毎日のように触っている。鍵盤を押すといろんな音がなってとても楽しい。
もちろんまだまだ思うようなものは全く作れていないけれど、もっと早くやればよかったなと思う。

もっと早くやればよかったと思うことは沢山あるし、今後も増えて行くと思う。
消化するには今は時間が足りなさすぎる。10年前は時間があったがお金がなかった。

だけど、今思えばお金がなかったというのはいいわけで、単純にお金を払う胆力がなかったんだなと思う。

少し前に、僕の職域の界隈で有名なazu氏が寄付に関するサービスをリリースしていて、そのドキュメントにお金を手放すことには苦痛が伴うということが書いてあった。

https://azu.github.io/slide/2021/open-philanthropy/open-philanthropy.html

思い返せば、今まで満足にお金を持った経験がなく、常にお金を使うことを避けてしまっていたので、僕は多分お金を手放す苦痛と今までうまく向き合うことができていなかったんだなと思う。

先日久しぶりに服を買いに行った。服や靴などを1人で買いに行くことは非常に久しぶりだったが、自分で選び何かを買うという体験はこんなに難しくて、こんなに楽しいものだったのかと思った。
何より僕は服を買うことが下手になったなと思った。 何かを決断するのにも苦痛が伴う。
このことと僕はもう少し向き合う必要があると感じている。

絵は引き続き描いている。
年内に一枚、少し大きめの絵を仕上げたいと思っている。
今回は特に展示をする予定もないし、おそらく完成してSNSにあげて、それでおしまいになると思う。
今年はおそらくアナログでは4、5枚、デジタルで着彩したようなものが他に何作か、それでも地道に続けている。

そもそも僕は絵を描いて何をしたかったんだろうなとよく考えている。
何者にもなれずに、特に評価されるわけでもなく、今後評価されることもおそらくはないと思う。
お金にしたいという気持ちもあまりない。展示をしたいみたいな気持ちはあるけれど、優先度としてはかなり低い。
東京のことは知らないけれど、関西アートシーンに対してははっきり言ってネガティブな印象を抱いていることも関係しているのかもしれない。

ただ、それでも描き続けているし、今のところ辞めるということは全く考えていない。

長男の幼稚園が冬休みに入って、昼間の自由時間はすっかりなくなってしまった。
子供を寝かしつけた後、可能であれば起きて自分の作業をする時間に充てる日々が始まっている。
来年になれば仕事が始まるので、この日々がまたずっと続くと思う。
これを繰り返すことは、なんというか、削っていくような感覚になる。

もしかしたら今後、絵を描くことは限りなく少なくなるのかもしれない。
でも絵の代わりにコードを描くことや、音楽を作ること、または違う何かを作ることは続けて行くと思う。

最近よく、人間というのはコンバータみたいなものでかもしれないと考えている。
なんらかの入力があって、それを何かの形に変換して出力することを繰り返しているのかもしれない。
入力は例えばその日の出来事や今までの記憶、経験みたいなもので、出力は入力に伴う単純な応答や、表情、あるいは料理、絵、創造物みたいなものになる。
自分は単純に、自分が何を出力するのかに興味があって、それが知りたいがためにずっとこの行為を繰り返しているのかもしれないなと、漠然と考えている。

自分が絵を描いて、世の中に対してインパクトを残したいというよりも、自分が何かを作るとどんなものができるかわからないから知りたい、みたいな単純な話なのかもしれない。

幼稚園が冬休みに入った長男と、毎日レゴで遊んでる。
レゴで何かを作るというより、レゴの小さいフィギュアたちに名前をつけて、毎日戦わせたり物語を作って一緒に遊んでいる。
この遊びはもう2年続いている。
2年間、ほぼ毎日ずっとこの遊びを繰り返している。
最初はトラックたちが主人公だった。毎日形を組み替えながら、何台かのトラックたちで話をして、物語を作っていた。
今もそのトラックたちはいる。長男の成長と興味の移り変わりに合わせて、トーマスが入ってきたり、マリオが入ってきたり、マイクラが入ってきたりして、ほとんどカオスな世界観が広がっている。
今、自分の一番の友達はきっとこの長男で、2人で2年かけて作りあげてきたこの世界は、本当に宝物みたいに感じている。
だけどいつかきっと、パパとは遊ばなくなって、この世界が終わって、この世界があったことも忘れてしまう日が来るんだろうなと思う。
それでもいいさ、それがいつになるかはわからないけど、だから今思う存分遊んでおかないとなと思う。


そういえば今年は個人制作でアプリを一つリリースした。長男がマイクラのスキン作りにハマっていたことがあって、既存のアプリだと作りにくそうにしていたので、より簡単に作れそうなものを考えて作ってみた。
イクラのスキンを作るためのアプリで、ブラウザで遊ぶことができる。
カスタムスキンは残念ながらswitchのマイクラは非対応だけど、スマホ版やJava Edition では使えると思う。

https://minecraft.skin-editor.com/

来年はどんな年になるかわからないけど、後悔がないように楽しく過ごしたい。